柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
さて今回は、京と大阪を一度に紹介。特に変わった事もないが、
また加えると、この辺りの事情は、作家・ http://www.ikedakai.com/ (隆慶一郎わーるど)
「京都島原」 島原は日本遊郭の根元地として其名を知られ、 小舞十六番の 文がやりたや室町筋へとりや違えて他の人にやるな 花のよみやまの手に渡せ(奈良楽) とあるのは此頃の作であるとの事である。後四十年更に寛永十八年
(註1)享禄元年の十二月公許: 享禄元年は、西暦1528年に当り、8月20日に「大永」 (註2)天正十七年五月免許: 同年表に5月の記載はないが、同年2月に駿河・ (註3)慶長七年八月: 西暦1602年に当たる。矢張り廓に関する記載はないが、この8 (註4)小舞十六番: 初期の歌舞伎の若衆歌舞伎の16曲。狂言小舞の影響があった。( その小舞の「文が遣りたや・・・」は、端唄・俗謡の「室町」 (註5)寛永十八年: 西暦1641年。この年の8月、幕府は、 (註6)「色道大鑑」: 延宝六年(1678)の序が残る藤本箕山著の『色道大鏡』18巻
「大阪新町」 新町は五花街中に最も由緒ある廓である、
先の様に、隆慶一郎氏に公式サイトに詳しいので、注釈を省いた。
「遊女の起源」 遊女 遊女の名称は詩の周南漢広の首章に出ている。即ち南有喬木、 凡有者(おほならば)左毛右毛将為乎(かもかもせむを)恐跡( 振痛袖乎(ふりたきそでを)忍而有香聞(しのびてあるかも) 倭道者(やまとぢは)雲隠有(くもかくれたり)雖然( 余振袖乎(わがふるそでを)無礼登母布奈(なめしともふな) 之に拠れば奈良時代に於いて所謂遊女なるものが、 降って大和物語によれば、遊女白女(シラメ) 浜千鳥とひ行く限りありければ 雲立つ山をあはとこそ見ゆ 又同じ帝が、津の国鳥飼の院に幸せられた折、此辺の遊女を夥多( 浅緑かひある春にあひぬれば 霞ならねどたちのほりけり 是また叡感斜ならず、帝袿(ウチギ)一襲と袴とを賜わり、
(註1)周南漢広: 『詩経』国風周南編の「漢広」の事。『詩経』には、 (註2)南有喬木・・: 『詩経』の国風周南にある。文中()の部分は、脱字だろう。 http://chinese.hix05.com/ (註3)凡有者・・・: 下記URLを参照の事。 http://blogs.yahoo.co.jp/ (註4)倭道者・・・: 下記URLを参照を http://hiro-ks.jp/manyou/ (註5)『大和物語』以下: 『大和物語』は平安期に、『伊勢物語』 http://plaza.rakuten.co.jp/ http://plaza.rakuten.co.jp/
(註6)古今著聞集: 鎌倉時代、伊勢守橘成季によって編纂された世俗説話集。『 (註7)十訓抄: 鎌倉時代中期の説話集、詳細不明。
いやはや、編者あるいは当時の人の博学に驚いてしまう。漢文は、
その後、色々調べてみたが、
しかし今、先人によって培われた柏崎の文化は、
Best regards 梶谷恭巨 しばらく一般論が続く。 ご容赦。 (尚、今のところ、平日に一段毎紹介する予定である。)
さて、今回は、江戸吉原の沿革とでもいうべき段落である。
以前、『ある旧制中学校長の足跡』として、柏崎中学、
さて、今回の『柏崎華街志』は、
何とも言い訳がましいことになったが、今しばらく、
「江戸吉原」 慶長以前には江戸にも麹町八丁目に十四五軒、 尤も此庄司甚右衛門と云う人は小田原の者で北條家の浪人であるが 一、 傾城町の外、傾城商売致す可からず、並(に)傾城町園の外、 一、 傾城買遊び候者、一日一夜より長留致すまじき事 一、 傾城の衣類、総縫い金銀の摺箔等、一切着せ申間敷( 一、 傾城町家作普請等、美麗に不可致(イタスベカラズ)、 一、 武士町人体の者に不限(カギラズ)、出所慥(タシ)かならず、 右之通急度相守可申もの也
此吉原は其後日に月に繁昌したが、
(註1)吉原の沿革『洞房語園』の著者勝富が六代の祖: 『洞房語園』は、江戸中期の随筆、著者は、庄司道恕斎富勝で、 (註2)天保十三年の厳禁: 水野忠邦の「天保の改革」
冒頭に書いた次第だが、一つ思い出したので、トリビア的記憶を。
Best regards 梶谷恭巨 今回から本文に入る。 しばらくは一般論あるいは概説である。
「我国の花柳界」
多数の妓楼を一定の地域内に集合したものを遊郭と云うのであるが 『恐れながら、私内々存ずる旨あり、遊女を抱え集めて、 と言上した。 元より太閤は色を重んずるから直ちに許された、
第一 京の島原 第二 山城国伏見夷町 第三 伏見町柳町 第四 近江国大津馬場町 第五 駿河国府中弥勒町 第六 武蔵の国新吉原 第七 越前国敦賀六軒町 第八 同 三国松下 第九 同国今庄新町 第十 大和奈良鴨川 第十一 和泉国境北高洲町 第十二 同 境南津守 第十三 摂津国大阪瓢箪町 第十四 同 兵庫磯町 第十五 佐渡国鮎川(相川)山崎町 第十六 石見国塩泉津稲町 第十七 播磨国室小野町 第十八 備後国鞆有磯町 第十九 安芸国広島太多海(忠海) 第二十 同 宮島新町 第廿一 長門国下ノ関稲荷町 第廿二 筑前国博多柳町 第廿三 肥前国長崎丸山町 第廿四 薩摩国樺島田町 第廿五 薩摩国山鹿野
其後日に月に増加して、今日に在っては全国を通じて、 娼妓 四万二千百七十八名 芸妓 二万六千二百二十六名 に達して居ったが、当時は日露戦役の影響で、 就中吾が国に於ける遊郭の嚆矢(ハジメ)
以上、「我国の花柳界」の内、前半を記した。
(註1)原三郎左衛門: 不詳。 この話は、江戸中期の国学者・入江昌喜、享保7年(1722)~ (註2)太多海: 現在の広島県竹原市忠海
今回は、特に注釈・解説もほとんどないと思う。 尚、25遊郭の所在に関しては、
Best regards 梶谷恭巨
さて、『柏崎華街志』だが、矢張り、社会の裏面史である。 読者の中には、抵抗感を持つ方もあるかもしれない。 ただ、一読するに、『柏崎華街志』は、当時の時代背景をよく表しているのである。
今回は、著者小田金平の「自序」を紹介する。 興味深いのは、著者が、先ず引用しているのが、幸田露伴の『花街風俗志』の序文である。 兎に角、原文を紹介しよう。 幸田露伴氏「花街風俗志」の巻頭に序して曰く「花柳の事士君子之を語るを恥づ、然りと雖(イエド)も妓女の徳川氏の治世に於ける、実に当時の一大勢力にして、其の関連する所甚だ広く甚だ深し」と、豈(ア)に唯に徳川氏の治世のみと曰(イ)はんや、苟(イヤ)しくも吾人人類の其の跡を滅せざる限り、其の裏面に於ては、永(トコ)しえに花街柳巷と相関渉せざるを得ざらむ。吾が柏崎の花街未だ馬声廻合青雲外、人影搖動緑波裏の盛観を見ざるも、然かも楊柳傷心の樹、至(る)処に靡(ナビ)き、桃李断腸の花、不断に咲けるあり、況(イワ)んや其の沿革甚だ旧くして、若(モ)し今日に之れを探(タズ)ぬるに非すんば、杳(ヨウ)として又知ること能(アタ)はざるに至るの憾(ウラ)みあらんとす。予等自ら揣(ハカ)らず「柏崎華街志」を刊行し、敢えて之れを江湖に問ふもの、其の意全く茲(ココ)に存す。此の一小冊子、若し今日に於て、過去の柏崎と其の花街とを見る者に取り、多少の参考とならば、望外の幸となす所、ただ剪劣の才、粗笨(ソホン、大まかでぞんざいな)の文、よく柏崎花街の真面目を写す能はざるを遺憾とするのみ。 明治己酉十一月 梧桐、天凱、識 (註)『花街風俗志』、著者・大久保葩雪(ハセツ、名は豊、別号に無心老樵葩雪、幕末から明治に活躍した、生年没年不詳)、1906年(明治39年)4月、隆文館(東京)発刊 序、幸田露伴、他に、『花街風俗史』があるが、序文も幸田露伴であり、出版社、出版年月が同じなので、同一のものと思われる。 以下、少々長くなるが、『柏崎華街志』が恐らく影響を受けているであろう大久保葩雪著『花街風俗志』の幸田露伴による序文を紹介する。 原文は、旧漢字、旧仮名遣いである。 そこで便宜上、現代文に置き換えることもある。 「華街風俗志序」 花柳の事士君子之を語るを愧(ハ)づ。然りといえども妓女の徳川氏の治世に於ける。実に当時の一大勢力にして、其の関連するところ甚だ広く甚だ深し。徳川氏三百年間、詞章工技より音楽演劇に至るまで、花柳の事殆(ホトン)ど其の中心たるの観ありて、所謂(イワユル)徳川氏の文明は、花柳の事を除けば、剰(アマ)すところ幾何も無きに似たり。蓋(ケダ)し希臘(ギリシャ)の盛時、名妓輩出して、鉅公大人もまたこれに狎昵(コウジツ、慣れ親しむ)するを嫌わざりしが如く、島原芳原の殷(サカ)んなるに当たっては上下翕然(ギュウゼン、集まりあう様)として桃李の春色に酔い、人々ただ其の悦(ヨロコ)ぶべきを知って其の悪(ニク)むべきを知らざりしなり。 明治丙午仲春 幸田露伴識 (註1)デミトリウス(ヂミトリユス)の話: 出典不詳。名前から推測して、ローマ時代の物語のように思えるのだが、不明。ご存知の方があれば、ご教授願いたい。 以上、参考の為に、幸田露伴の『花街風俗志序』を紹介した。 尚、幸田露伴について若干触れる。 幸田露伴: 1867年8月22日(慶応3年8月23日)~1947年(昭和22年)7月30日、本名は成行、別号には、蝸牛庵(カギュウアン)などある。尾崎紅葉ともに、紅露時代を築いた。詳細は、省くが、娘・文、孫・青木玉、曽孫・青木奈緒も作家(エッセイスト)、文才は遺伝するのだろうか。 さて次に、「凡例」を紹介する。ここには、意外に重要な情報が記載されている。兎に角、先ずは原文から。尚、この「凡例」に関しては従前どおりである。 一、 本書発刊に就いては幾多の先輩諸氏より多大の同情を傾倒せられ、或は有益の材料を与え、 或は親しく談話を試みらるる等直接間接に尽力さるる事、頗(スコブ)る多きが、茲(コ コ)に聊(イササ)か其の芳名を列記して謝意を表せんと欲せしかど、却って礼を失するの 恐れあるを慮(オモンバカ)り、わざと略する事にせり。 (註)参考文献について。 尚、◎で示したのは、柏崎市立図書館蔵で、近代デジタルライブラリーからダウンロード出来る。○は、柏崎市立図書館蔵。△は、近代デジタルライブラリーからダウンロードできる。●は、学会ライブラリーなど、一部有料で利用できる。×は、いずれにも無いようである。
◎『北越史料出雲崎』: 西澤新次郎編、佐藤書店、1906年(明治39年)9月刊。この史料に関しては、1977年6月、復刻版が発刊された。 さて以下の文章だが、これを書いたのは昨年の5月、かれこれ一年になる。読み返して赤顔する処もあるのだが、兎に角、その当時を振り返りながら、掲載する。尚、この後に、写真等続くのだが、百年の歳月が過ぎたとは言え、当時の状況と今の価値観が異なり、この『柏崎華街志』をアップロードする際にも考えた事だが、時系列とは過酷なもので、必ずしも今生きる我々の感覚では、認識できない事象も起りうるもだ。 題詞 贈芍採蘭詩不刪、「贈芍採蘭の詩は刪らず」 采風察俗記周官、「采風察俗の記は官に周く」 諸君休怪品郎筆、「諸君休怪して郎筆を品し」 細写華街紙上看、「細写する花街、紙上で看よ」 其二 繁華滅却昔時栄、「繁華滅却は昔時の栄え」 扇閣瓢楼幾変更、「扇閣瓢楼は幾変更」 非獨新街知沿革、「新街の沿革を知るは独りに非ず」 柳情花態亦分明、「柳情花態、また分明す」 と、まあ浅学な知識で訳しても見たが、さてどうなのだろう。 ただ、表意文字の良いところで、字面からイメージすることは難しくはない。 強いて言わせてもらうと、対句や韻は踏んであるようなのだが、七言絶詩として、果たして性格なのだろうか。 平仄を一部調べてみたが、何とも言い難い。 作者が、敢えて「題詞」としたのは、その辺りの事情があるのかも知れない。 しかし、いずれにしても、当時の人々の漢学に対する素養の程が窺われる。 柏崎には、以前から藍澤南城の「三余堂」あり、また、明治後には、北溟義塾ありで、漢詩漢文の命脈は、明治末に至っても広く市民に継承されていたようだ。 どの辺りから、この漢文漢詩の系譜が希薄になるのか、寧ろその事に興味が湧く。 前回紹介したので省略するが、この「題詞」は、「贅疣仙史」と号する柏崎日報の編集者と思われる人物が、菊の香りのする編集室の一隅で、戯れに作したものである。 因みに、『柏崎日報』は、その前身である『柏崎新聞』は、明治33年5月10日に創刊され、明治39年1月1日、週刊『中越新聞』と合併して、『柏崎日報』となった。 小熊三郎氏の『柏崎日報物語』によると、『柏崎華街志』が発刊された明治42年当時の社主は桑山直三郎氏(明治45年、社主を引き、大正3年10月26日没)であったようだ。 尚、「其二」にある「扇閣」「瓢楼」は、後で出てくるのだが、共に柏崎の老舗の名前である。 特に、「瓢楼」は、文中にもあるように、歴史が古く、当初は、「瓢宅」とも言ったようだ。 以前紹介した十返舎一九の『金の草鞋』に登場するのが「瓢宅」である。 今回は、この部分を省略し、作者の「自序」から始めるつもりだったが、省略するのも序の作者に失礼と思い、自信のないまま紹介した。 下し読み等、間違いがあればご指摘、ご教授頂ければ幸いである。 ところで、先ほど発掘現場から電話があり、明日より出てくれないかとの事。 何でも、人が5人くらいしか集まらず、県の学芸員からせっつかれたようである。 日当6200円では、景気が今一の状況でも、よほど発掘現場が好きでもない限り、人は集まらないだろう。 という次第で、しばらくは休刊状態になるかもしれない。 何しろ、久しぶりの肉体労働、(発掘作業というのは、天候気候にもよるが重労働なのである)、しばらくは筋肉痛やらで、書く事もままならないだろう。 ご容赦。 Best regards梶谷恭巨 |
カウンター
プロフィール
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1947/05/18
職業:
よろず相談家業
趣味:
歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
最新記事
(10/14)
(10/14)
(10/14)
(10/14)
(10/14)
最新コメント
[04/17 梶谷恭巨]
[04/17 まつ]
[03/21 梶谷恭巨]
[11/18 古見酒]
[07/10 田邊]
カレンダー
フリーエリア
最新トラックバック
ブログ内検索
最古記事
(11/28)
(11/28)
(11/28)
(11/28)
(11/28) |