柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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承前。

「二、遊女屋の起り」(1)

 天正の頃、上杉遺臣の妻妾が糊口(クラシ)に窮して、銀五分を以て、一夜の春を
売った事があるが、其者を白ゆもじと云うて、五分小路(今の郵便局前の細い小路で
土紛五路)と云う処に居たのである。其後慶長年中に、国守松平上総介が福島城に居
られた頃、大久保石見守と云う寵臣があったが、此人が主となって、北國海道に駅亭
を設けて、是に飯盛女と云うを置いて、旅客の給仕や、偖(サ)ては密かに枕の塵を
払わせる事迄したのである。此石見守は佐渡の金山奉行を勤めて居たが、佐渡へ渡航
の往復には必ず柏崎に立寄っては、多くの婢女を集め、淫楽を恣にして、旅の鬱を慰
めて居たが、後愛妾の十二人も置いて、広壮なる館に住んで居たとの事であるが、間
もなく断絶したそうである。其後下の関より吾が柏崎に移住して駅馬宿を開いた瓢箪
屋(一説に大阪瓢箪より来たりと)と言うもの、至って通人であって、往来旅客の
取持ち方宜しく、瓢ヶ宅として遠近に知られ酌婦の如きものを置いて、益々繁昌に赴
いたので、其後是に做(ナラ、倣?)うものが続々出て来て、遂に今日の様な盛況を
見るに至ったのである。最も此瓢箪屋は京阪地方より移住し来ったものである事は確
実なるものと思われる。そ(鳥居の様な字だが、辞書にない)は瓢箪の目印看板を用
い、且つ瓢箪屋と云う屋号を附ける事は、京阪地方より始まったと云う事であるか
ら、兎に角前記の瓢箪屋なるものは下の関ではなく、大阪より来たものであろうと思
うのである。

(註1)上杉遺臣の妻妾が糊口(クラシ)に窮して: 上杉氏が米沢へ移封となるの
は、慶長6年(1601)であるから、「天正の頃、上杉の遺臣」と云うのは、天正6年
(1578)に起きた、謙信亡き後の相続争い「御館の乱」で、景勝に敗北した景虎の遺
臣という事であろうか。刈羽郡で言うと、景勝に与したのは、上条城主(上条政繁、
上杉氏)、赤田城主(斎藤朝信)、佐橋庄領主(北条高定、毛利氏)、安田氏当主
(安田顕元)等であるが、これら各氏は、中世からの習いで、親兄弟で家を二分し、
家名を残す訳だから、上杉の遺臣と云うのは、景虎に味方した同族の婦女子だったと
言う事だろう。

(註2)五分小路: イメージからすると「御粉」すなわち「白粉」ではないだろう
か。又、土紛とあるから、土ぼこりが立つ様な荒涼とした様子が見えるのだが、それ
は心情的なことで、寧ろやいだ雰囲気があったのではないだろうか。

(註3)国守松平上総介が福島城に居られた頃: 徳川家康の六男、天正20年
(1592)1月4日生まれ。母は茶阿局。妻は伊達政宗の長女・五郎八(イロハチ)
姫。元和2年(1616)7月6日、表向きの理由は様々だが、兄・秀忠により改易、伊
勢国朝熊に、更に飛騨国高山に配流され、寛永3年(1656)信濃国諏訪に流されて、
天和3年(1683)7月3日、諏訪高島城で没した。享年92歳。

 福島城は、上杉景勝の会津移封の後に城主となった堀秀治によって築城された。現
在の上越市港二丁目辺りと云われ、中世の国府・府中に相対する立地であったよう
だ。

(註4)大久保石見守: 大久保長安(ナガヤス)の事。天文14年(1545)、猿楽
(能)大蔵流を創始した猿楽師・大蔵大夫十郎信安の次男として生まれ、後に姓を土
屋と称し、武田信玄に仕え黒川金山などの開発を行ったが、武田家滅亡後、その技術
を買われ徳川家康に仕えた。その後、大久保忠隣(タダチカ)の与力として、甲斐国
の再建に努め、更に関ヶ原の戦い後、大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、
甲斐奉行、石見奉行、美濃代官、とんとん拍子に出世して、慶長8年、家康が征夷大
将軍に叙任されると、長安自身も従五位下石見守に任じられ、家康の六男・松平忠輝
の附家老となる一方、佐渡奉行、勘定奉行、老中に上り、更に伊豆奉行を兼任した。
鉱山あるいは土木技術に長じ、且つ計数に明るかった所謂「出来る男」だった訳であ
る。しかし、権力が集中し、「出る釘は打たれる」の習いの如く、家康の寵を失う
と、職責を次々と罷免され、不幸も重なって、慶長18年、卒中の為に死去。死後、
更に、不正蓄財の嫌疑を掛けられ、子の内、男子は全て処刑され、長安の遺体は掘り
返されて、首を切られ、駿府城下の安部川に晒された。映画や小説では、悪人役の代
名詞とも云われたが、その真実は、詳らかではない。また、大久保長安が柏崎に滞在
した、と云う出典が分からない。

 この文脈だけでは、当時の柏崎の状況が読み取れないが、江戸時代、鉢崎(今の米
)が幕府直轄領で、関所が設けられた事から推測すると、戦国時代から宇佐美氏
の城下であった柏崎が、交通の要衝であった事が窺える。ただ、江戸初期中期の紀行
文など当たるのだが、今のところ、江戸後期寛政の頃(1789~1801)に、京の医師・
橘南谿が著した『東遊記』しか見当たらない。因みに、『東遊記』中、新潟に関する
記述は、以下の通り。

 名立崩れ(13)、米山(14)、佐渡わたり(22)、親不知(23)、七不思議
(34)、葡萄嶺雪に歩す(40)、新潟(42)、竜の鱗(48)、蚌珠(ボウジュ、河真
珠のことらしい、49)、登竜(54)、舞楽(63)、鍛冶屋敷(88)、姫川波浪
(89)、春日山(90)、空穂舟(95)、土を薪にす(101)、の16件の収録があ
る。因みに、記載のある土地を現在の県で言うと、京都、神奈川、東京、愛知、静
岡、滋賀、福井、石川、富山、岐阜、長野、新潟、山形、秋田、宮城、岩手、青森、
北海道のほぼ全域に亘り、段数は104であるから、越後に関する記載は多い方であ
る。尚、()内の数字は、東洋文庫『東西遊記』(平凡社)の第一巻『東遊記』の段
番号である。また、越後に記事に、遊女や遊郭に関する記載は見当たらなかった。

Best regards
梶谷恭巨
承前。

柏崎の遊廓』

「一、花街の起り」

 柏崎花街を称して新と云うが、とは比較的他よりも新しいであるから、
其の称があるので、又長谷川三を総称したのである。天和検地の際には畑地であっ
たが、間もなく砂埋れの為めに一旦荒地に帰してしまった。それを元禄年中の代官長
谷川新五左衛門という人が、柏崎に在勤の時開拓して、屋敷請をしたのであるが、今
日の長、谷、川は此長谷川の名に因んで附けたものである。尤も世間で云う新
とは此長谷川三の事を云うのではなく、妓楼のある処を指して言うので、遂に今
日に至る迄、人の呼ぶ処となって居るのであるが、是れ或は大阪の新より伝え来っ
たものであろうか。そは兎に角、柏崎の遊廓は古来より扇にあった事は事実
で、天和の頃迄は扇の事を橋場と云て居たが、元禄の頃迄此処に用会所(役所)
があって、元禄十六年戸田家の郡代奉行所矢中多七郎の時に此役所を島移し
て、陣屋と称え、修復の入費は割で支出する事に決し、後貞享年中、旧扇役所の
家屋を修築して、稲葉家の御用会所と定められた、此頃内に飯盛の稍進化せるもの
を、駅場宿に置く事を許されたが、其後屋敷検査の為に大久保村に移されたとの事
である。

 尚お往昔吾が柏崎は馬継場として、有名な地で、毎年六月七日より一週間は祇園祭
礼で、加うるに馬市があって、附近なる天王新地より浜辺にかけて数百頭の馬匹
が係留された事は、今に古老の語る処である。寛政の頃火災の為めに、臨時に市場を
閻魔堂境内に移したが、地理の便なる処から、爾後市は年々閻魔堂境内に行わるゝ事
となった。其後柏崎の馬市は椎谷の馬市と合併することとなって柏崎の市は単に閻魔
市と称え、見世物を主とする市に化し今尚お年々盛んに行われて居るのである。尤も
他の説に因ると閻魔市と馬市とは全然別物であって天王新地の馬市は今日微かに残存
せる春日の馬市に化したものであると云う事である。要するに新の繁盛を来たすに
至ったのは、此馬市が与(アズ)って大に力あるのである。古来郷人は新を呼ん
で、馬捨場といって居るが、是れ即ち伯楽等が賭博或は遊女(飯盛)の為めに、財布
を空にして、所有の馬を手放すもの多い為めに、其名目を付けたのであるが、当時の
繁昌は実に驚くの外なかったそうである。

(註1)天和検地: 元和元年6月、「越後騒動」の決着がつき、翌元和2年4月末
から7月末まで、諏訪・松代・飯山・津軽四藩によって行われた惣検地の事で、明治
に至る迄、土地基本台帳とされた。(新潟県立文書館、古文書講座の解説参照)ま
た、この『元和検地帳』は、柏崎市立図書館の『柏崎の近世史料』に収録されてい
る。

(註2)長谷川新五左衛門: 元禄時代、柏崎は稲葉家・高田藩領。当時の藩主は、
稲葉正往(マサミチ、正道)であり、長谷川は、その代官であったと思われる。ただ
し、稲葉家の小田原時代あるいは天保年間の分限帳に「長谷川」の名前は無かった。

(註3)元禄十六年戸田家の郡代奉行所矢中多七郎: 戸田家は元禄14年、下総
佐倉藩から高田に移封、宝永7年、宇都宮に移封された。歴代最も石高が低く6万7
000石であり、治世には消極的であった。「郡代奉行所」とあるのは、「郡代」
と「奉行」を兼務していたという事か。因みに、職制から言えば、「郡代」の方が
上位である。

(註3)貞享年中、旧扇役所の家屋を修築して、稲葉家の御用会所: 時代錯誤が
あるようだ。貞享(ジョウキョウ)は、1684年から1687年(貞享4年)まで
続き、1688年に元禄に代わる。稲葉氏の高田治世時代は、貞享2年、小田原から
高田に移封、元禄14年(1701)、下総佐倉に移封された。余談だが、Wikipediaの
高田藩「稲葉正住の時代」に、佐倉への移封が元禄16年とあるが、これは明らかに
間違いである。

(註4)屋敷検査: 家は、間口の幅で課税されたというから、その間口を調査
したという事か。

(註5)大久保村に移された: 白河藩松平家(久松系)時代の寛保2年(1742)
に、扇陣屋から移転。因みに、同松平家が、桑名に移封されたのは、文政6年
(1823)で、柏崎を含む越後領は、引き続き飛び領として支配された。

(註6)祇園祭礼(社): 大正11年刊の『越佐案内』によれば、「湊天王社は、
和那祇神社とも称し、鵜川の東岸に在りて柏崎の鎮守なり。境内眺望に富、遥に佐渡
を望み、北には椎谷の観音岬、南には下宿の番神が鼻相対して海中に突出し海水の湾
入する処、夜に入らば漁火島嶼に連亘し、夏季納涼の絶景地なり。」とある。ここで
云う「湊天王社」あるいは「和那祇神社」が、所謂「祇園社」あるいは「八坂神社」
と思われる。その境内で、開催された八坂神社の大祭「祇園祭」が、今の「祇園まつ
り」の発祥。また、大正15年刊の『柏崎案内』には、「此境内は眺望絶景の地で最
近八坂霊泉組合を組織して広壮な浴場と貸間が出来ている。」尚、この件に関して
は、柏崎市のサイト(下記)「柏崎の水」に詳しい。

  <http://lib.city.kashiwazaki.niigata.jp/siraberu/mizu/145_1.pdf>
http://lib.city.kashiwazaki.niigata.jp/siraberu/mizu/145_1.pdf

(註7)寛政6年、天王新地:牛頭天王を祀った天王社前の砂浜を市川与一左衛門が
開発したので、天王新地と称された。寛政鑑に天王門前18件とある。その後、祇園
社が遷宮されたので祇園新地、八坂神社と改称後は八坂新地と称された。明治20
年、柏崎の一部となり、以後、大正4年まで通称名となる。(『角川日本地名大
辞典(旧地名編)』)

(註8)閻魔堂: 同上『越佐案内』によると、「有名な閻魔堂は駅よりに入り北
二丁の地に在り、閻魔王の座像三尺余、泰広王婆鬼、何れも木彫にして運慶作なりと
云う。閻魔市は毎年六月十日より十六日迄にして十五六の両日最も賑いを呈す。堂は
聖武天皇神亀三年(726)の建立にして、側いに芭蕉の句を彫れる碑あり」とある。

(註9)春日: 明治22年(1889)の村制施行に伴い槙原村に、明治34年
(1901)に日吉村と合併して西中通村に、戦後一部分離して、昭和29年にすべて柏
崎市に編入された。故に、当時の春日は、西中通村大字春日ということになる。因み
に、江戸時代、高崎藩主安藤重長の次子重広が明暦3年(1657)に本藩から7000
石を分地され旗本になり、その内5000石が越後国刈羽郡内にあり、春日に陣屋を
置いた。余談だが、文政年間、一揆が起るほどの悪政があり、「春日には嫁をやる
な」とまで云われた。余談だが、春日に隣接する平井村も安藤領であったが、安政5
年3月、小千谷の算学者・佐藤雪山と弟子でもあった『三元素略説』を著した広川晴
軒が、一揆後に代官に起用された高野六大夫に依頼され、田畑の測量を行っている。

 今回から柏崎の事になった訳だが、知らぬ事の多さに驚く。閻魔堂の閻魔王座像等
が運慶の作と伝えられているとか、境内に、芭蕉の句碑があるとかである。 芭蕉
は、柏崎人の対応が悪いと、柏崎を飛び抜けて柿崎に泊まったと云われているから、
柏崎に場所の句碑がある、あるいはあったとは思わなかったのである。付け加える
と、先に挙げた『越佐案内』によると、刈羽郡には、柏崎高浜村、石地、下宿
村、枇杷島村、高柳村の、二四村あった事が分かる。現在、刈羽郡には刈羽村一村
しかない。地名が、合併などで変遷しているので、今後、その確認に時間を取られそ
うだ。古地図も探しているのだが、今のところ見つからない。これも難題を投げ掛け
そうだ。

 いずれにしろ、これから先、調べることが多くなりそうである。今回も、調べる時
間に多くを費した。まあ、致し方あるまい。

Best regards

梶谷恭巨

 承前。 今回で一般論は終わりである。次回からは、柏崎花街の沿革を紹介したい。

 

「土地と遊郭との関係」

 花柳界の存亡は多く土地の盛衰に伴うものであって、土地の盛衰はまたやがて、花柳界の状態卜(ボク)し得られるとすれば、土地と花柳界との関係は実に深く且つ重きものがある。

 昔随分盛んな遊里でも今は其俤(オモカゲ)を見る事の出来ない処がある。又昔寂寞なる処であっても今は土地と共に盛大になって居る場所もある。東京を江戸と云いし頃、吉原に遊郭が出来て、それが順次江戸の一大勢力をなして、三千の遊女が客を待つに至ったのである。

 今全国各地の花柳界を見渡すに、東海、東山、四国、九州、北海道の端迄も要所々々には遊郭がある。仮令(タトエ)花柳界としての面目を具えて居らない迄も、芸妓に類似の酌婦、貸座敷類似の料理店は到る所に存在して居る。今是を太平洋沿岸と日本海沿岸とに比較して見ると太平洋沿岸は非常に盛んである。要するに花柳界の盛んなるは昔から海岸の地に多く、山間の方は余に振わない洋で、是を地方に徴するも海岸の方は小規模ながらも遊郭の様なものを具えて居るが、山間には少ない様である。と言うのは、海に瀕して居る土地は交通頻繁であって、凡(スベ)ての事業が繁盛に赴き、土地の制裁も備わって公娼も許され、芸妓も置かれるが、山間は然(ソ)うは行かない。故に多く私通が行われ、姦淫堕胎等種々なる罪悪が犯されて居るのである。

 何れの県、何れの宿駅に於ても、往古の道筋には規模の大小は扨置(サテオ)き必ず低唱浅酌の場所はあったので、是を吾が越後に見るも高田を去る事一里にして直江津、更に柏崎出雲崎、寺泊、と殆ど其俤を見ぬ処はない。然し一廓をなして居る花柳界は都会の地に多いもので、明治三十八年の遊廓所在地は、

 東京 静岡 岐阜 浜松 名古屋 四日市 和歌山 京都 大阪 堺 神戸

 岡山 馬関 熊本 博多 長崎 広島 徳島 高知 若津 唐津 鹿児島 琉球

 台南 台北 高崎 水戸 仙台 下の関 盛岡 尻内 青森 弘前 若松

 福島 米沢 山形 秋田 甲府 長野 新潟 札幌 室蘭

等であったが、目下亦多少の増加を示して居るであろう。尤も遊郭は表面社会風教上に害を醸すことがあると言うので、より稍や離れたる場所に設立する事になって居るので、吾が新潟県の如きも直江津は火災後移転して一廓をなし高田又師団の新設と共に移転することとなったが、他地方も亦追々に此の趨勢を追わんとしつつあるのである。

 

 今回は、特に注釈すべきこともないようだ。ただ、上記赤字で示したように、「馬関」すなわち「下関」と言えるのだが、後の「下の関」は別の地名であるようだ。そこで、調べてみたのだが、福島県二本松市に「下ノ関」という地名があるが、それらしき記載がない。順序からすれば、仙台と盛岡の間であるから東北地方かと思うのだが、所在地の順序に規則性があるようにも思えないので、この「下の関」、さて何処であろうと首を傾げる。

 

 また、台湾の地名、台南と台北がある事に、明治42年と言う時代を感じる。

 

 ところで、次回から本論である「柏崎」が始まる。そこで、彼方此方と資料を探していたら、明治44年(1911)に「桐油屋火事」というのがあったそうだ。『柏崎が発刊されたのが明治42年であるから、その後の事である。調べてみると、当時、「石油工場」というがあったようで、そこが柏崎遊廓の中心であったようだが、この大火で、現在の「新花」に移転したようだ。ところで、この「石油工場というのが、今一つ分からない。『柏崎』から推測するに、「扇」なども、一時期(石油産業最盛期)、に「石油工場に包括されていたのだろうか。この辺りは、「柏崎編」に入って追々調べることにしたい。

 

 ところで、この年明治44年4月9日、東京吉原でも大火があった。何かの符号だろうか。

 

少々外れるのかも知れないが、例えば、長岡の場合、石油産業の勃興による石油成金の子弟問題が起っている。旧制長岡中学では、この為、明治39年に「長中騒動」というのが起り、当時好調であった坂牧善健辰は、その責任を問われた。当時の長岡新聞は「長岡中学の大珍事、坂牧校長の責任を論ず」と、石油成金との間で悶着を報じているのだ。結果的には、一時期、東郷平八郎の介入があったのか、沈静化を見たようだが、結局、坂牧善辰は、東郷元帥の推挙もあり、鹿児島県立第二中学初代校長として鹿児島県に赴任する事になるのである。これと同様な事件が柏崎で起ったとは聞かない。しかし、当時の事情を勘案すると、柏崎でも、石油成金は存在したに違いない。しかし、「長中騒動」のような事件が起こらなかった背景には、城下であった長岡と人のであった柏崎の相違があるのだろうか。言い換えれば、武家支配による旧体制、(これは、戊辰戦争で相当に変化したとは思うのだが)、言い換えれば、倫理観あるいは価値観の劇的変化が長岡には生じたが、柏崎では、それらの移行が思いのほか、容易に推移したのかも知れない。それが、宝田(ホウデン)石油と日本石油の合併に際し、社名を「日本石油」にした原因ではなかったか。まあ、そんな事が思い浮かぶのである。

 

また、当時の事情を考えると、西欧的倫理観、特にキリスト教的倫理観が隆盛する時代でもあったと推測するのだ。すなわち、日本の伝統的価値観と西欧的価値観の拮抗する時代でもあった。その事が、今回の文脈にも窺われると思うのだが、さて私だけの印象なのだろうか。

 

更に言えば、編者が言うように、日露戦争による明治38年の高田師団(第13師団、後に仙台に移転)の新設がある。この年、4つの師団が新設された。第13師団は、その後、樺太→朝鮮→シベリアへと所在地移すのであるから、当時の日本海沿岸の事情が、今と大きく異なることも念頭に置かなければならない。敢言えば、駐屯地の問題は、今も昔も変わらないのだろう。如何に繕うとも、駐屯地には自然発生的に花柳界あるいは風俗業は生まれるものなのだが。余談。

 

いずれにしても、編者・小田金平が言うように、花街の盛衰は、土地との関係を、あるいは時代背景を抜きにしては語れない、と思うのである。

 

Best regards

梶谷恭巨

 承前。 前回に続いて、「遊女の起源」の残りを紹介する。尚、終段は用語の説明であるので注釈を省略した。次回は、「土地と遊郭との関係」を紹介し、その次から愈々「柏崎の遊廓」に入る。

 

 是を見ても其繁盛の状を知るに足るのである。公任卿の和漢朗詠集には遊女を詠じて、倭琴緩調臨潭月唐櫓高推入水煙とあり、中御門宗忠卿中右記には熊野與比和君同船追一舟中指二笠発今様曲付船漸過神崎之間とあるのを見れば、遊女は傘を指しかけて船に上り、今様を歌い倭琴を掻き鳴らし、鼓等を打ち鳴らしたものの如く、これと共に春を売り枕席に侍ったのは勿論の事である。前記遊女記にも莫不接牀第施慈愛と云い、中右記前の続に相公迎熊野與州招金壽羽林抱小最下官(宗忠卿自身を云う)自本此事不堪仍帰自沈寝る(了)とあるのを見ても明らかなる次第である。

 

(註1)公任卿: 藤原公任(キントウ)の事。康保3年(966)~長久二年1月1日(104124日)、平安時代の学者で、藤原氏全盛の関白太政大臣・藤原道長の子・教通の女婿、その嫁す時に贈答されたのが『和漢朗詠集』と伝えられる。時代的には平安末期、村上天皇の時代であった。

(註2)倭琴緩調臨潭月、唐櫓高推入水煙: 冒頭「倭」は、「和」だが、古写本には「倭」とするものもあるようだ。読み下すと下記の通り、

 和琴は緩く調べて潭月に望み、唐櫓(カラロ)は高く推して水煙に入る。

 和琴は、『倭名抄』の注に「体は筝(ソウ)に似て短少、六弦有り、俗に倭琴の二字を用う」(読み下しにした)とある。潭月の「潭」は、水が淀んで深いところであり、「潭月」は、その「潭」に移る月の事。唐櫓(カラロ)は、唐様式に作られた櫓の事。

 大意は、その遊女は、水の深みに映る月に向かって、和琴を奏でる、また唐櫓は高く、水煙に入るは、何ともエロチックな表現である。まあ、読者諸氏の想像に任せるとしよう。

(註3)中御門宗忠卿: 平安後期の公卿。藤原北家(藤原氏嫡流家)中御門流、権大納言藤原の宗俊の長男で、従一位右大臣を任じた藤原宗忠の事。丁度、今読みかけの『平家物語』の平忠盛事件に関係が深い。

(註4)中右記: 藤原宗忠の日記。

(註5)熊野與比和君同船、追一舟中指二笠、発今様曲、付船漸過神崎之間: 熊野はこの和君と同船し、一舟を追って中指二笠、発するは今様の曲、付船は漸く神崎を過ぎるの間(ここは、付船は漸く過ぎる神崎の間、と読んでもよいかもしれない)

(註6)莫不接牀第施慈愛: 前回註を参照。 (牀第に接し、慈愛を施さざることなかれ)

(註7)相公迎熊野、與州招金壽、羽林抱小最、下官(宗忠卿自身を云う)自本此事不堪、仍帰自沈寝る(了): 相公は熊野を迎え、与州は金寿を招き、羽林は小最を抱き、下官は本よりこの事に絶えず、よって(すなわち)帰り自ら沈み寝了す。尚、「る」とあるのは「了」の間違えであろう。

 

 又遊女の外に、傀儡と云うものがあった。傀儡とは人形の事である。後世の山猫舞わし、手品使いなどの如く、旅から旅を人形を舞わしめ放下など為(シ)歩きたる婦女等に始まった名称で、水辺にあるを遊女と云い、陸駅にあるを傀儡と唱えたのであるが、爾来星移り物替り其区別も自(オノズカ)ら混合して、一般に遊女と称えるに至った。偖(サ)て此遊女傀儡は其住所に水箔と山駅の別こそあれ、何れも旅客往来の津駅にのみ住居しておったと云う事である。

 

(註8)放下: 室時代から近世に見られた雑芸で、ジャグラーの芸に話芸を加えたようなものか。

 

 傾城、其名の因って来る所は、前漢書に武帝の時李延年が歌に、北方に佳人あり、絶世にして独り立つ、一度(ヒトタビ)顧り見れば人の城を傾け、二たび見れば国を傾くとあるに依る、之れ李延年が妹の李夫人を称せしものであって、傾城の名(媛)に於て始まったものである。蓋(ケダ)し其始めは美人の称であったのを、今は転じて遊女の称となった。日本に於でも大永年中、既に傾城局の券書と云うものあって遊女を傾城と云う事、寛文より甚だし云々と奇異雑談集に見えて居る。又当国の傾城は奉公勤め短く、紋日なく、栄(サカ)りもさのみ過ぎざる程に、年明く故に、仕舞好、京師吉原の如きは、身代高く、勤めも十三年、其上佳節、祝日、洛外の祭会式等皆紋日として、其日空ければ、身揚りし借金と成(ナリ)、年季に加る故、二十八九、三十迄も勤めれば、盛りはいつか過て、大夫天神麗か仕りしも気色少く、果は茶屋、風呂屋に落行猶もはうれて、曾宇加の類に成行あり最もひんなく哀れなり云々、と某書に見える。

 

(註9)『前漢書』: 『漢書』、班固・斑昭(班固の妹)等によって編纂された前漢を記した歴史書。

(註10)武帝: 前漢第七代皇帝。

(註11)李延年: 武帝の宦官で、歌舞を能くし、寵を得たが、李夫人の死後、族誅された。

(註12)『奇異雑談集』: 江戸初期の怪談集。

(註13)当国: 越後の事と思われる。

(註14)紋日(モンビ): 江戸時代、官許の遊廓の隠語で、五節句等の特定の日に遊女を休む事を許されず、客は祝儀を弾まなければならなかった、その日。

 

 吾が北越地方海岸通りの遊女屋にては、今日娼妓を子供衆(遊女を児供と云いし事某書に見ゆ)と云い、傾城と呼ぶ事を、娼妓を侮蔑したものの様に思うて居る。

 

遊君 とは平安朝の末より鎌倉時代に亘りて遊女の称であるが、源平盛衰記に大江定基、三河守に任じて赤坂の遊君力寿に別れて云々。又曽我物語和田義盛の詞に都の事は限りあり、田舎にては黄瀬川の亀鶴手越の少将、大磯の虎にて、海道一の遊君ぞかしなど見え、其他此時代の著書に遊君と云う事が多く見える。

白拍子 の名の因って起ったのは平家物語にある、有名な祇王祇女が嚆矢(ハジメ)かとの事である。最も是は白拍子の上手としてあって、遊女とは言えない。併(シカ)しながら同じ文中に京中の白拍子、祇王が事のめでたきようを聞きて羨やむものあり、妬むもあり、羨むものは、あなめでたの祇王御前のさいわいや同じ遊女とならば、誰れも皆あのようにこそありたけれ云々と云う事があるから其実同一のものであったのであろう又此祇王祇女等の母刀自も白拍子とある。且我朝に於る白拍子の始まりは、昔鳥羽院の御宇に島の千鳥、和歌の前、かれら二人が舞い出したりけるなりとあるから、白拍子は、祇王祇女以前に既にあったものに相違なく、悉く遊女とは思われない。始め水干立烏帽子白鞘を佩たる女の舞姿、男舞と云うて居ったが、源平頃には白鞘巻の刀並に烏帽子を脱し、単に水干のみにて舞いしより白拍子の名が起ったとの事である。

 尚お又徒然草には例の義経の静御前、其母磯野禅師、又は亀菊などより始まると云うてある。

歌舞妓 名古屋山三郎と云うもの、出雲の巫女くにと云えるに通じ、くにに刀を差させ頭を包みて早歌を教え舞わせければ、是を歌舞伎といったそうである。又林道春の説に此歌舞妓の始まりしは慶長十九年の頃と云うて居る

 

 以上、「遊女の起源」を終わる。

 

Best regards

梶谷恭巨

承前。 今回は、漢文『遊女記』があるので、その読み下しと解釈に時間が掛かりそうである。

 

 遊女の発達は前にも述べた如く、漢に遊女あり求む可からずと云えるように、又大宰府の児島が大伴卿を慕えるように、港泊水路の要津にて先ず発達し、次いで駅路に及んだものと思われる。就中(ナカンヅク)我が国の江口神崎蟹島の如きは、山陽南海西海の要津であったから、発達他に比類なかりしものの如くである。此般の消息は大江匡房卿遊女記に最も詳らかである。(以下、原文は返り点の有る漢文、()内は、薄学、試みに読み下し文にした。)

 

 自山城国與渡津(淀)浮巨川西行一日(山城国與渡津より巨川に浮きて西行すること一日)謂之河陽(之を河陽という)、往返於山陽南海西海之者(山陽南海西海を往返する者)、莫不遵此路(この路に遵わざるなし)、江河南北邑々処々分流向河内国謂之江口(江河は、南北、邑邑処処分流し河内国に向かい、之を江口という)、・・・・到摂津国有神崎蟹島等地(摂津国に到り、神崎・蟹島等の地有り)、比門連戸人家無絶娼女成群(門を比べ戸を連ねるの人家の絶える無く、娼女群れを成し)、扁舟(扁舟に掉さす)、看舶以薦枕席声(舶を看して以て、枕席を薦めるの声)、過渓雲韻(渓雲を過ぎる音)、飃水風(水風をひるがえす)、経廻之人莫不忘家(経廻の人、家を忘れざるなし)、州蘆浪尤(洲の蘆や浪、もっともなり)、釣翁商客、舳艫相連殆無水(舳艫相連なって殆ど水無きがし)、蓋天下第一之楽地(けだし天下第一の楽地なり)・・・・上自卿相下及黎庶(かみは卿相より、しもは黎庶に及び)、莫不接牀第施慈愛(床台に接し、慈愛を施さざるなし)、又為妻妾歿身被寵(又妻妾と為り、身を歿して、寵せらる)、雖賢人君子不免此行(賢人君子といえどもこの行免れず)・・・・

 

原文(漢文)中の注:

(1)  浮巨川: 「浮」後にレ点はないが、文脈から「巨川」は淀川と考え、動詞に読む。

(2)  邑々処々: 邑(ユウ、むら)、彼方此方にという意味。

(3)  扁舟: 平底の舟

(4)  看船舶: 別文献によると、「船」ではなく「検」である。

(5)  経廻: 滞在する、行き来する。

(6)  加無水: 文脈からもおかしい。別文献で確認すると「如」である。

(7)  牀第: 「牀」は中国の寝台のようなもので、床の意味。「第」は、「台」に同じ。

 

尚、「・・・・」省略の部分を揚げると、下記の通り: (赤のは脱字、()内は注釈、機会があれば読み下しにしたい。

(1)  蓋典薬寮味原樹、掃部寮大庭荘也、

(2)  江口則観音為レ祖、中君、□□□小馬、白女、主殿、蟹島則宮城為宗、如意、孔雀、香炉、三枝、神崎、則河孤姫為長者、孤蘇、宮子、力余、小児之属、皆是倶尸羅之再誕、衣通姫之後身也

(3)  南則住吉、西則広田、以之為下祈徴嬖之処上、殊事百太夫、道神之一名也、人別宛之数及百千、態蕩人心、亦古風而已、長保年中、東三条院(兼家女詮子)参詣住吉社、天王寺、此時禅定大相国(道長)被寵小観音、長元(後一条)年中、上東門院(道長女彰子)又有御行、此時、宇治大相国(頼通)被賞中君、延久年中、後三条院同幸此寺社、狛犬、壹等之類並舟而来、人謂神仙、近代之勝事也、相伝曰、雲客風人為賞遊女自京洛河陽之時、愛江口人、刺史以下自西国入江之輩愛神崎、神崎人皆以始見為事之故也、所得之物謂之団手、及均分之時廉恥之心者、忿励之与、大小諍論不異闘乱、或切鹿絹尺寸、或分米斗升、□□有陳平分肉之法、其豪家之侍女、宿上下舶之者謂之亦遊得少分之贈為一日之資、愛有髷、俵月絹之名、舳取登指、皆土九公之物、習俗之法也、雖見江翰林序、今亦記其余而已、

 

(註1)江口・神崎・蟹島: 皆、摂津国(現大阪府)、下図参照(小谷野敦著『日本売春史』、「淀川水系の地図」より。

http://www.chikuyusha.jp/ITiinndayori/0904/dai4kaiNo1.jpg

 

(註2)大江匡房、『遊女記』: 平安後期の漢学者、歌人。『遊女記』は、当時の風俗を記した代表作。他に、『傀儡子記』『洛陽田楽記』『続本朝往生記』があり、永井荷風の『墨東奇譚』を彷彿させるものがある。

 

 今回は、この辺りで了す。何しろ、次に、『和漢朗詠集』が登場するのだ。これは、金子元臣・江見清風合著の『和漢朗詠集新釋』を所持しているので、今回より作業が早いかもしれない。

 

Best regards

梶谷恭巨



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