柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
承前。 「二、遊女屋の起り」(1) 天正の頃、上杉遺臣の妻妾が糊口(クラシ)に窮して、 売った事があるが、其者を白ゆもじと云うて、五分小路( 土紛五路)と云う処に居たのである。其後慶長年中に、 られた頃、大久保石見守と云う寵臣があったが、 を設けて、是に飯盛女と云うを置いて、旅客の給仕や、偖(サ) 払わせる事迄したのである。 の往復には必ず柏崎に立寄っては、多くの婢女を集め、 めて居たが、後愛妾の十二人も置いて、 もなく断絶したそうである。 屋(一説に大阪瓢箪町より来たりと)と言うもの、 取持ち方宜しく、 いたので、其後是に做(ナラ、倣?)うものが続々出て来て、 見るに至ったのである。 実なるものと思われる。そ(鳥居の様な字だが、辞書にない) い、且つ瓢箪屋と云う屋号を附ける事は、 ら、兎に角前記の瓢箪屋なるものは下の関ではなく、 うのである。 (註1)上杉遺臣の妻妾が糊口(クラシ)に窮して: 上杉氏が米沢へ移封となるの は、慶長6年(1601)であるから、「天正の頃、上杉の遺臣」 (1578)に起きた、謙信亡き後の相続争い「御館の乱」で、 臣という事であろうか。刈羽郡で言うと、景勝に与したのは、 上杉氏)、赤田城主(斎藤朝信)、佐橋庄領主(北条高定、 (安田顕元)等であるが、これら各氏は、中世からの習いで、 家名を残す訳だから、上杉の遺臣と云うのは、 言う事だろう。 (註2)五分小路: イメージからすると「御粉」すなわち「白粉」ではないだろう か。又、土紛とあるから、 は心情的なことで、 (註3)国守松平上総介が福島城に居られた頃: 徳川家康の六男、天正20年 (1592)1月4日生まれ。母は茶阿局。妻は伊達政宗の長女・ 姫。元和2年(1616)7月6日、表向きの理由は様々だが、 勢国朝熊に、更に飛騨国高山に配流され、寛永3年(1656) 天和3年(1683)7月3日、諏訪高島城で没した。 福島城は、 在の上越市港町二丁目辺りと云われ、中世の国府・ だ。 (註4)大久保石見守: 大久保長安(ナガヤス)の事。天文14年(1545)、猿楽 (能)大蔵流を創始した猿楽師・ 屋と称し、武田信玄に仕え黒川金山などの開発を行ったが、 を買われ徳川家康に仕えた。その後、大久保忠隣(タダチカ) の再建に努め、更に関ヶ原の戦い後、大和代官、石見銀山検分役、 甲斐奉行、石見奉行、美濃代官、とんとん拍子に出世して、 将軍に叙任されると、長安自身も従五位下石見守に任じられ、 の附家老となる一方、佐渡奉行、勘定奉行、老中に上り、 鉱山あるいは土木技術に長じ、且つ計数に明るかった所謂「 る。しかし、権力が集中し、「出る釘は打たれる」の習いの如く、 と、職責を次々と罷免され、不幸も重なって、慶長18年、 更に、不正蓄財の嫌疑を掛けられ、子の内、男子は全て処刑され、 返されて、首を切られ、駿府城下の安部川に晒された。 名詞とも云われたが、その真実は、詳らかではない。また、 した、と云う出典が分からない。 この文脈だけでは、当時の柏崎の状況が読み取れないが、 山町)が幕府直轄領で、関所が設けられた事から推測すると、 の城下であった柏崎が、交通の要衝であった事が窺える。ただ、 文など当たるのだが、今のところ、江戸後期寛政の頃(1789~ 橘南谿が著した『東遊記』しか見当たらない。因みに、『東遊記』 記述は、以下の通り。 名立崩れ(13)、米山(14)、佐渡わたり(22)、親不知( (34)、葡萄嶺雪に歩す(40)、新潟(42)、竜の鱗( 珠のことらしい、49)、登竜(54)、舞楽(63)、 (89)、春日山(90)、空穂舟(95)、土を薪にす( る。因みに、記載のある土地を現在の県で言うと、京都、神奈川、 岡、滋賀、福井、石川、富山、岐阜、長野、新潟、山形、秋田、 北海道のほぼ全域に亘り、段数は104であるから、 る。尚、()内の数字は、東洋文庫『東西遊記』(平凡社) 番号である。また、越後に記事に、 Best regards 梶谷恭巨
承前。
『柏崎の遊廓』 「一、花街の起り」 柏崎の花街を称して新町と云うが、 其の称があるので、又長谷川三町を総称したのである。 たが、間もなく砂埋れの為めに一旦荒地に帰してしまった。 谷川新五左衛門という人が、柏崎に在勤の時開拓して、 日の長町、谷町、川町は此長谷川の名に因んで附けたものである。 町とは此長谷川三町の事を云うのではなく、 日に至る迄、人の呼ぶ処となって居るのであるが、 たものであろうか。そは兎に角、柏崎の遊廓は古来より扇町、 で、天和の頃迄は扇町の事を橋場町と云て居たが、 があって、 て、陣屋と称え、修復の入費は町割で支出する事に決し、 家屋を修築して、稲葉家の御用会所と定められた、 を、駅場宿に置く事を許されたが、 である。 尚お往昔吾が柏崎は馬継場として、有名な地で、 礼で、加うるに馬市があって、 が係留された事は、今に古老の語る処である。 閻魔堂境内に移したが、地理の便なる処から、 となった。 市と称え、 他の説に因ると閻魔市と馬市とは全然別物であって天王新地の馬市 せる春日の馬市に化したものであると云う事である。 至ったのは、此馬市が与(アズ)って大に力あるのである。 で、馬捨場といって居るが、是れ即ち伯楽等が賭博或は遊女( を空にして、所有の馬を手放すもの多い為めに、 繁昌は実に驚くの外なかったそうである。 (註1)天和検地: 元和元年6月、「越後騒動」の決着がつき、翌元和2年4月末 から7月末まで、諏訪・松代・飯山・ に至る迄、土地基本台帳とされた。(新潟県立文書館、 た、この『元和検地帳』は、柏崎市立図書館の『柏崎の近世史料』 る。 (註2)長谷川新五左衛門: 元禄時代、柏崎は稲葉家・高田藩領。当時の藩主は、 稲葉正往(マサミチ、正道)であり、長谷川は、 し、稲葉家の小田原時代あるいは天保年間の分限帳に「長谷川」 (註3)元禄十六年戸田家の郡代町奉行所矢中多七郎: 戸田家は元禄14年、下総 佐倉藩から高田に移封、宝永7年、宇都宮に移封された。 000石であり、治世には消極的であった。「郡代町奉行所」 と「町奉行」を兼務していたという事か。因みに、 上位である。 (註3)貞享年中、旧扇町役所の家屋を修築して、 あるようだ。貞享(ジョウキョウ)は、 続き、1688年に元禄に代わる。稲葉氏の高田治世時代は、 高田に移封、元禄14年(1701)、下総佐倉に移封された。 高田藩「稲葉正住の時代」に、 間違いである。 (註4)町屋敷検査: 町家は、間口の幅で課税されたというから、その間口を調査 したという事か。 (註5)大久保村に移された: 白河藩松平家(久松系)時代の寛保2年(1742) に、扇町陣屋から移転。因みに、同松平家が、 (1823)で、柏崎を含む越後領は、 (註6)祇園祭礼(社): 大正11年刊の『越佐案内』によれば、「湊天王社は、 和那祇神社とも称し、鵜川の東岸に在りて柏崎の鎮守なり。 を望み、北には椎谷の観音岬、 入する処、夜に入らば漁火島嶼に連亘し、夏季納涼の絶景地なり。 云う「湊天王社」あるいは「和那祇神社」が、所謂「祇園社」 と思われる。その境内で、開催された八坂神社の大祭「祇園祭」 り」の発祥。また、大正15年刊の『柏崎案内』には、「 近八坂霊泉組合を組織して広壮な浴場と貸間が出来ている。」尚、 は、柏崎市のサイト(下記)「柏崎の水」に詳しい。 <http://lib.city.kashiwazaki. http://lib.city.kashiwazaki. (註7)寛政6年、天王新地: 開発したので、天王新地と称された。 社が遷宮されたので祇園新地、 年、柏崎町の一部となり、以後、大正4年まで通称町名となる。( 辞典(旧地名編)』) (註8)閻魔堂: 同上『越佐案内』によると、「有名な閻魔堂は駅より町に入り北 二丁の地に在り、閻魔王の座像三尺余、泰広王婆鬼、 云う。 聖武天皇神亀三年(726)の建立にして、 (註9)春日: 明治22年(1889)の町村制施行に伴い槙原村に、明治34年 (1901)に日吉村と合併して西中通村に、戦後一部分離して、 崎市に編入された。故に、当時の春日は、 に、江戸時代、高崎藩主安藤重長の次子重広が明暦3年( 石を分地され旗本になり、 置いた。余談だが、文政年間、一揆が起るほどの悪政があり、「 な」とまで云われた。余談だが、 年3月、小千谷の算学者・佐藤雪山と弟子でもあった『 軒が、一揆後に代官に起用された高野六大夫に依頼され、 今回から柏崎の事になった訳だが、知らぬ事の多さに驚く。 が運慶の作と伝えられているとか、境内に、 は、柏崎人の対応が悪いと、 柏崎に場所の句碑がある、 と、先に挙げた『越佐案内』によると、刈羽郡には、柏崎町、 村、枇杷島村、高柳村の、二町四村あった事が分かる。現在、 しかない。地名が、合併などで変遷しているので、今後、 うだ。古地図も探しているのだが、今のところ見つからない。 そうだ。 いずれにしろ、これから先、調べることが多くなりそうである。 間に多くを費した。まあ、致し方あるまい。 Best regards 梶谷恭巨 承前。 今回で一般論は終わりである。次回からは、
「土地と遊郭との関係」 花柳界の存亡は多く土地の盛衰に伴うものであって、 昔随分盛んな遊里でも今は其俤(オモカゲ) 今全国各地の花柳界を見渡すに、東海、東山、四国、九州、 何れの県、何れの宿駅に於ても、 東京 静岡 岐阜 浜松 名古屋 四日市 和歌山 京都 大阪 堺 神戸 岡山 馬関 熊本 博多 長崎 広島 徳島 高知 若津 唐津 鹿児島 琉球 台南 台北 高崎 水戸 仙台 下の関 盛岡 尻内 青森 弘前 若松 福島 米沢 山形 秋田 甲府 長野 新潟 札幌 室蘭 等であったが、目下亦多少の増加を示して居るであろう。
今回は、特に注釈すべきこともないようだ。ただ、
また、台湾の地名、台南と台北がある事に、
ところで、次回から本論である「柏崎華街」が始まる。そこで、
ところで、この年明治44年4月9日、
少々外れるのかも知れないが、例えば、長岡の場合、
また、当時の事情を考えると、西欧的倫理観、
更に言えば、編者が言うように、
いずれにしても、編者・小田金平が言うように、花街の盛衰は、
Best regards 梶谷恭巨 承前。 前回に続いて、「遊女の起源」の残りを紹介する。尚、
是を見ても其繁盛の状を知るに足るのである。公任卿の和漢朗詠集
(註1)公任卿: 藤原公任(キントウ)の事。康保3年(966)~ (註2)倭琴緩調臨潭月、唐櫓高推入水煙: 冒頭「倭」は、「和」だが、古写本には「倭」 和琴は緩く調べて潭月に望み、唐櫓(カラロ) 和琴は、『倭名抄』の注に「体は筝(ソウ)に似て短少、 大意は、その遊女は、水の深みに映る月に向かって、 (註3)中御門宗忠卿: 平安後期の公卿。藤原北家(藤原氏嫡流家)中御門流、 (註4)中右記: 藤原宗忠の日記。 (註5)熊野與比和君同船、追一舟中指二笠、発今様曲、 (註6)莫不接牀第施慈愛: 前回註を参照。 (牀第に接し、慈愛を施さざることなかれ) (註7)相公迎熊野、與州招金壽、羽林抱小最、下官(
又遊女の外に、傀儡と云うものがあった。
(註8)放下: 室町時代から近世に見られた雑芸で、
傾城、其名の因って来る所は、前漢書に武帝の時李延年が歌に、
(註9)『前漢書』: 『漢書』、班固・斑昭(班固の妹) (註10)武帝: 前漢第七代皇帝。 (註11)李延年: 武帝の宦官で、歌舞を能くし、寵を得たが、李夫人の死後、 (註12)『奇異雑談集』: 江戸初期の怪談集。 (註13)当国: 越後の事と思われる。 (註14)紋日(モンビ): 江戸時代、官許の遊廓の隠語で、
吾が北越地方海岸通りの遊女屋にては、今日娼妓を子供衆(
遊君 とは平安朝の末より鎌倉時代に亘りて遊女の称であるが、 白拍子 の名の因って起ったのは平家物語にある、有名な祇王祇女が嚆矢( 尚お又徒然草には例の義経の静御前、其母磯野禅師、 歌舞妓 名古屋山三郎と云うもの、出雲の巫女くにと云えるに通じ、
以上、「遊女の起源」を終わる。
Best regards 梶谷恭巨 承前。 今回は、漢文『遊女記』があるので、
遊女の発達は前にも述べた如く、
自山城国與渡津(淀)浮巨川西行一日(
原文(漢文)中の注: (1) 浮巨川: 「浮」後にレ点はないが、文脈から「巨川」は淀川と考え、 (2) 邑々処々: 邑(ユウ、むら)、彼方此方にという意味。 (3) 扁舟: 平底の舟 (4) 看船舶: 別文献によると、「船」ではなく「検」である。 (5) 経廻: 滞在する、行き来する。 (6) 加無水: 文脈からもおかしい。別文献で確認すると「如」である。 (7) 牀第: 「牀」は中国の寝台のようなもので、床の意味。「第」は、「台」
尚、「・・・・」省略の部分を揚げると、下記の通り: (赤の□は脱字、()内は注釈、機会があれば読み下しにしたい。 (1) 蓋典薬寮味原樹、掃部寮大庭荘也、 (2) 江口則観音為レ祖、中君、□□□小馬、白女、主殿、 (3) 南則住吉、西則広田、以之為下祈徴嬖之処上、殊事百太夫、
(註1)江口・神崎・蟹島: 皆、摂津国(現大阪府)、下図参照(小谷野敦著『日本売春史』、
(註2)大江匡房、『遊女記』: 平安後期の漢学者、歌人。『遊女記』は、
今回は、この辺りで了す。何しろ、次に、『和漢朗詠集』
Best regards 梶谷恭巨 |
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誕生日:
1947/05/18
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よろず相談家業
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自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
河井継之助記念館友の会会員
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