柏崎・長岡(旧柏崎県)発、
歴史・文化・人物史
承前。
さて、今回から、「娼妓の事」に入る。尚、凡例等は、
「娼妓の事」(1)
開業 全問に源姓を迎え、後門に平族を送るとか、梅に従へ桜に靡( 父親の病気に要る、お薬代とは古風な型、 出願するものは戸籍謄本、印鑑証明書、父兄の承諾書、
廃業 には左の如き区別がある、借用金皆済、客身受、自由廃業、 以上の如くなるが、此外に病死情死等によるものもある、 (借用金皆済)とは、 (客身受)落籍、根引と呼ばれるも身受の事で、 夫れで其楼を出るときには、朋輩女郎や、其他楼内の雇人等には、 (親元身受)此親元身受と云うのは、 (自由廃業)と云うのは、 (営業禁止)其源因は、 (住替)俗に鞍替と言うので、
今回は、言葉の解説であるので注釈を省く。ただ、
また、長くなるので簡単に紹介するが、江戸時代、吉原の客は、
Best regards 梶谷恭巨
承前。
今回から「貸座敷の事」に入る。尚、コメント等に関しては、 載の際に考えたい。 「貸座敷の事」 貸座敷の名称は文字の上から見ると貸席と同様で、凡ての公会、 にも使用する事が出来る様に思われるが、 の貸座敷と云うのである。 此新名称を附けられたる貸座敷は、即ち昔時から娼館、妓楼、 旅籠屋、茶屋、揚屋と一般に呼ばれた営業者であるが、 えて居た事もある。最も中古より遊女屋と称したが、 て居たのである。 楼号 娼家の楼号を用うる事は、 と云うのを何々楼という丈けで別に新たに家名を附けた訳ではない 号の下に宅の字を附けた家が四五軒あった。今其名を記せば、 瓢ヶ宅 源ヶ宅 半宅 等である。此宅の字は家、住家、己が家、自宅と云うのであるが、 うは名字の頭字であるとの事である。 建物 妓楼の建物に就いては、 だが、柏崎では集娼組織でなく、国道に散在して居るから、 ぬ様で、三層楼に至っては僅に二三ありしのみで、 の構造に至っては普通民家と別に相違して居らぬ。 である。尤も明治三十三年十二月県令が発布されて、 た。当時貸座敷取締規則第五條に( 坪未満は幅員四尺以上の梯子一個以上、 毎に一個を増設すべし)とあった。 吉原の如きは其内部を区分して見ると、 大略左の如くである。 帳場 内証 縁喜棚 料理場 髪部屋 男部屋 女部屋 夜具部屋 湯殿 食事場 (客室) 便所 等で階上は、 引付座敷 鴇母(ヤリテ)部屋 娼妓部屋(座敷) 行燈部屋 名代部屋 などに区別されて居るのである。 はある様であるが、 る。 営業時間 往昔吉原などでは、 では別に然(ソ)う云うことはない様で、 ぬ。 芸娼妓は朝は七時から八時迄の間に起きて、 ら朝飯を喫して、裁縫女学校に行くとか、 内に昼飯(一時)を食して後二時頃から四時頃迄昼寝を遣る。 て来て化粧をなし、 ロ素見客(ヒヤカシ)が来る。其内に客もあるという具合で、 が、場合に因ると一時二時頃大戸を下す事もある。 行ってしまう。以上は一般に遣って居ると云う訳ではなく、 に因って相違するのである。 営業者の資格 貸座敷営業をなさんとするものは、族籍住所氏名年齢、 楼名又は屋号、営業家屋の構造を示せる図面を添えて、 令で免許地域及び戸数制限が定められれあるから、 かいうわけには行かぬ、夫れに戸主に非ざる者、 者、窃盗、詐欺取財、略取誘拐罪、猥褻姦淫罪、 満期後改悛の情なき者等は、 得れば店頭には斯(コ)う云う看版を揚げ、 げしめたが、三十三年十二月の県令で表看版及瓦斯燈(ガストウ) る事は廃止された。 妓楼の株 女郎屋、揚屋及び旅籠屋には其建築に夫々規定があって、 る事に定め、或は室に制限を設け、或は朱塗を禁ずる等、 夫々異る所があったので、外見を張る必要を生じ、抱妓の数、 宿、罪人宿、奉行宿等の関係より、 るヽに至った。されば楼名は依然として旧時の如くなれど、 のもあり、 以上。 「貸座敷の事」を終わる。 (註1)建物: ただ、この「建物」に関して言えば、ほぼ『花街風俗志』に同じで あるが、階下の冒頭に「張店」の記載がない事である。「張店」 顔見世の場所で、時代劇でよく見る格子窓の部屋。『花街風俗志』 の通り。 「張店は今こそ乱雑となって、 を誘招る手段としての場所に使用されるのみとなったが、 があった。即ち大店、中店、小店等の階級、換言れば、 に依って知れたのである。元の吉原時代には、格子見世、 ク)はあったが、格子見世に太夫を置くもあり、 て、純然たる区画は立たない。 に寛文八年三月廓外の売女屋七十戸が、 散茶見世を営み、従前の局店、 立った。 (一)太夫格子見世 (二)散茶見世 (三)梅茶見世 (四)局見世(又の名、 切見世) 偖(サテ)以上四種類の店に就ての構造は什麼(イカン) は最上の地位を占めるだけに、 で、其詳細は不明である。が散茶見世は、 はあるが=又梅茶見世の構造は、 面影を伝えあったとのことで、・・・・・」 とある。 又、参考までに、少々見難いかも知れないが、大久保葩雪の『 れた貸座敷の組織図を紹介する。 貸座敷―楼主―営業用建物 ―営業用什器 ―営業上雇人―男― ―妓夫―見世 ―立番 ―仲働―本仲 ―立仲 ―追廻 ―不寝番 ―書記―下書記 ―番子―下番子 ―女―新造―下新造 ―鴇婆―下鴇婆 ―楼主附雇人―部屋働 ―お針 ―娼妓 (註2)鴇母: 「鴇婆」とも書く。遣り手婆。「鴇」は、「淫らなことの例え」 (註3)明治三十三年十二月県令: 直接、この県令に関わる資料は見つからなかっ たが、やや関連する面白い史料があったので紹介する。 すなわち、 兼通による秘甲第123号「貸座敷免許地標準内規の義に付通帳」 では、同年10月16日)である。当時、貸座敷の新設には、 が起こっていたようだ。今の高速道路とかの情報漏れで、 る。それが、マル秘の通達となったのだろう。尚、 る「貸座敷免許地標準内規」が添付されている。興味深いので、 と、何処か「風俗営業法」の観がある。尚、便宜上「カタカナ」 「條」は「条」に、「坐」は「座」に変えた。 第一条 貸座敷免許地の新設は左の条件を具備するに非ざれば詮議せす 一、其の土地市街を形成し戸数二千以上人口一万以上を有する事。 船着場其の他特別の事情あるものは此の限に在らず。 二、貸座敷営業者なきが為、密売淫の弊に堪えざる事 三、其の附近に貸座敷免許地なきが為、新設の必要ある事 四、其の地方民情に背馳(ハイチ、背き離れる)せざる事 五、貸座敷免許地に適当の場所ある事 第二条 貸座敷免許地に適当の場所とは左の条件を具備する土地を云う 一、別に一廓を為し通行路に当ざる事 二、最近の社寺、公園、官衙(カンガ、役所)、学校、病院、 要なる公道等より相当の距離を有する事 三、遠隔の地より望見し得べき高地を占めざる事 四、其の附近に停車場を設置する等の見込ある場所に非ざる事 第三条 新設の貸座敷免許地の出入口は非常用の為、 すと雖(イエド)可成(ナルベク)一ヵ所とすべし 第四条 新設の貸座敷免許地内に於ける家屋は平屋又は二階建に限らしむべ 目立つべき看板を揚げ又は娼妓を店頭に座列せしむることは之を禁 第五条 既設の貸座敷免許地にして移転の必要あるときは第一条及第二条に 場所を指定し第三条第四条の規定に依らしむべし 既設の貸座敷免許地にして拡張の必要あるときは亦前項に同じ。 『柏崎華街志』は、恐らく『花街風俗志』 推測されるのだが、東京吉原とはかなりの相違があるようだ。 の企業誘致や高速道路・新幹線の建設情報の漏えいと同様に、 権絡みの問題を生じさせたと思われる状況である。 (通達)からも窺えるのだ。また、遊郭の新設が、今の「 に似ているところが、実に興味深い。してみると、 らないと言う事か。 次回は、「娼妓の事」に入る。 Best regards 梶谷恭巨 承前。 一応、「遊女屋の起り」の原文は今回で終了。次回以降から、「
「遊女屋の起り」(4) 明治五年に至って実に一大打撃が加えられた。即ち抱女開放、 同年七年頃に至って又々開業をなすことを許可せられて、
都屋 いろはや 山口屋 田邊 常盤屋 千鳥屋 越路屋 緑屋 小石川 酢屋 月見屋 扇屋 桜屋 玉屋 千種屋 小池屋 河内屋 豊島屋 小島屋 高橋屋
等であるが爾後今日に至る迄又幾多の変遷を来した。
都屋 松美屋 玉屋 緑屋 越路屋 小石川 いろはや 若松屋 酢屋 高橋屋 品川屋 桜屋 日野屋 小島屋 港屋 河内屋 月見屋 豊島屋 千種屋 山口屋
(註1)明治五年に・・・: 明治五年10月2日(1872年11月2日) 尚、詳細については、国立公文書館で、「年季奉公人」あるいは「 http://www.digital.archives. (註2)倉皇: 慌てふためく様 (註3)機屋: 柏崎は、越後縮緬の集積地であり、生産地であった。「 (註4)明治7年頃に・・・: 直接の案件は無かったが、明治6年12月10日、東京府知事・ 「近来市街各所に於て売淫遊女体の者、 (註5)朱引地: これが、後の「赤線」の由来と推測される。
尚、下図は『柏崎華街志』添付の当時の地図である。
今回で、「遊女屋の起り」は終わるが、次回、
Best regards 梶谷恭巨
承前。
尚、原文史料には、候文の 読み下しを加えた。 「遊女屋の起り」(3) 其後明治二巳年民政局より遊女の取調べ方を指達されたのであるが 記せば左の通りである。 飯盛人書上帳 五人小石川惣吉 五人千種屋徳之丞 一人若松屋八十郎 一人大越屋伝三郎 二人半宅屋杢右衛門 十一人緑屋与平 四人松原屋藤七 二人常盤屋吉九郎 三人千鳥屋當右衛門 三人瓢わ宅屋安之助 一人小高屋民吉 一人五宅屋又六 二人桜屋竹三郎 六人高橋屋吉右衛門 三人小池屋藤助 四人小嶋屋平左衛 門 一人松原屋松三郎 一人駒野屋林兵衛 九人扇屋佐兵衛 一人日吉屋吉兵衛 一人河内屋庄兵衛 三人いろはや平二郎 二人松坂屋吉太郎 計廿三軒、七十二 人 右ハ飯盛人数書上ゲ候様被仰付候に付キ即取調ベ書上候処前書ノ通 (右は飯盛人数書上げそうろう様仰せ付けられそうろうに付き、 うろう処、前書の通りにご座そうろう) 明治二巳年八月 年行司 長町 又六 同 同 徳之丞 同 扇町 藤助 同 同 吉右衛門 御町会所年寄 山田仁右衛門 大庄屋 宮川 才策 民政局 御役所 尚ほ是が状況の取調べを受けて、左の如く届けをなす。 御尋ニ付キ乍恐以書附奉申上候( うろう) 一當町方飯売女濫觴之義(一つ、当町方飯売女、濫觴の義) 往古ハ遊女又茶屋女ト唱ヒ人数定モ無之候処( 定めもこれ無くそうろうところ) 寛政四子年領主ヨリ御改革アリテ新古旅籠屋中一軒ニ付キ飯売女二 申附候処 (寛政四年子年、領主より御改革ありて、新古旅籠屋中、 置き申すべき旨、申し付けれれそうろうところ) 文化十一戌年ヨリ町方ニ奉公筋無之候而ハ不相成旨ニテ宿馬八疋新 抱ヒ宿役相勤候得共御用宿相勤候者飯売女差置キ候義ハ不相成候義 貸借リ同居等勝手次第ト申規定ニ相成 (文化十一年戌年より町方に奉公筋これ無くそうろうては、 八疋の新古旅籠屋中にて相抱え、宿役相勤めそうらえども、 は、飯売女差置きそうろう義は、相成らずそうろうに付き、 居等、勝手次第と申す規定に相成り) 文政十亥年ヨリ都(スベ) 成リ候へ共追テ馬持仲間ニテ差支筋有之候ニ付キ改正致シ馬代金冬 而宿馬入用ノ半金出金ノ事ニ相成リ格別町方助成ニモ相成リ候義ニ 乍恐以書附此段申上候以上 (文政十年亥年より、すべて飯売女差置きそうろう者は、 めそうろう事に相成りそうらえども、 うろうに付き改正致し、馬代金、冬飼料、余荷等、 相成り、 附をもってこの段申上げそうろう、以上) 明治二巳年 山田仁右衛門 小熊 嘉市 宮川 才策 以上の書上帳に因ると寛政以前迄は遊女又は茶屋女と唱えて、 限もなかったのであるが、其後改正された、 定められ、税金の代りに馬代金と云うものを納めたのであるが、 数の制限抔もなくなってしまい、且つ遊女抔と唱えたのであろう。 郎屋を新々旅籠屋と云い、扇町に在るのを新旅籠屋と称えて、 藩などより護送される罪人の軍鶏籠(トウマルカゴ) あって、 (註1)年行司: ネンギョウジ、江戸時代、一年交代で勤める町あるいは株仲間の 役員。この場合、名前から推測すると、 役員と云うことであろうか。 (註2)長町・扇町: 現在の柏崎市西本町3丁目。大正4年7月25日、長町・扇 町・大町一部、五坊町一部が統合されて本町二丁目になり、 1日に、本町一丁目・本町二丁目一部・八坂町。鵜川町・ 部・納屋町下一部・八坂の下一部が統合されて、 の号で挙げた「長谷川」からとったと云う「長町」「谷町」「 「川町」は、本町一丁目から西本町三丁目になった。この街には、 念寺、浄興寺、西入庵、香積寺、観音寺、一念寺などのほか、 寺町の観がある。 (註3)濫觴: ランショウ、物事の起り 「書上書」には、例えば、 あるが、調べるのに少々時間がかかりそうだ。よって、今回は、 回でこの項が終わるので、改めて検証し、注釈など加えたい。 Best regards 梶谷恭巨 承前。
「二、遊女屋の起り」(2) 尚お徳川時代になって、遊女に関する制度を定められ、元和三年、
瓢ヶ宅 小石川 大越 源ヶ宅 引手茶屋(八坂新地にあって佐藤と呼びたる者)
其後泰平の御代となって、人心遊惰に傾き逸楽に耽る者多く、
松坂屋 駒野 小島屋
などの遊女屋が殖えた。
緑屋 桜屋 扇屋 菊屋 高橋や 面高屋
等の六軒を増すに至った。 尤も此より以前に遊行上人が、各所を巡錫し、
豊島屋 島川屋
と云うたが、其後に至って又河内屋と云うのが増した。
いろは屋
という一軒の遊女屋が増した。又此外に千種屋、玉屋、小池、 又新町の以東に古旅籠屋と云うて行旅の客をのみ宿泊せしめたもの 維新前迄の花柳界は仲々繁昌で、 斯くの如く区別してあった為めに、常に競争反目を起し、
(註1)丹保屋(ニホヤ): 頭から店の名前を検索したのだが、最初にヒットしたのが「 柏崎丹保屋新右衛門金銭受取証文[覚]( とある。収録資料の前後関係を見ると、この項の多くは、 また余談だが、記載氏名を見ると、長岡のものが多い。 星野太郎左衛門金銭受取証文[覚]( とある。面白そうなので追求してみたいが、 (註2)宮川: 柏崎に宮川という地名も姓もある。 (註3)平田: 旅館としての登録はないが、錦町に「平田酒店」がある。 (註4)天屋: 柏崎市西港町に「天屋」旅館が現存している。 (註5)本陣: 調べてみるが、「柏崎本陣」は見当たらなかった。ただ、 (註6)海津: 柏崎に海津という姓はよくある。関連があるのかもしれない。 (註7)笠島屋: 笠島という地名、信越本線に笠島駅がある。 (註8)丁子屋: 享保3年8月17日(1803年10月2日)、 (註9)岩戸屋: 岩戸屋は、300年以上続いた老舗。昭和61年1月31日閉業。
今回は、本文に記載された遊郭と旅籠に関して調べてみたが、
また、「瓢ケ宅」に関しては、十返舎一九の『金の草鞋』
Best regards 梶谷恭巨 |
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1947/05/18
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よろず相談家業
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