柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 『綴茗談柄(てつめいだんぺい)』という本がある。 藍澤南城の所謂「漢文小説」である。 茶飲み話というような意味であるようだ。 南城先生が、余暇、囲炉裏を囲み三余堂の寄宿生に語った物語だ。 清代、蒲松齢(ほしょうれい)によって書かれた短編集、奇談小説『聊斎志異(りょうさいしい)』を意識して書かれたものではないだろうか。 因みに、「チャイニーズ・ゴースト・ストリー」などの中国(香港)映画は、この『聊斎志異』が原典であるようだ。

 恐れ多いのだが、『綴茗談柄』にあやかって『綴集談叢(てっしゅうだんそう)』と題し、文献や書籍を調べている過程で知った面白そうな話を身勝手な判断で、集め書いてみようと思う。

 小金井良精を調べていた。 日清戦争中あるいは戦後、小金井良精は、人類学の観点から捕虜の骨格調査を行っている。 最大の目的は、日本人のルーツを探すことであったようだ。 しかし、軍隊に縁故がない。 そこで、伝を辿って訪ねたのが芝五郎だった。 共に、賊軍の汚名を着せられた長岡と会津の出身者であり、年齢的にも、戊辰戦争での辛酸をなめたことも似ていた。 暗黙の了解と云うのか、以心伝心と云うのか、芝五郎は、小金井の要望を快く承諾したそうだ。

 芝五郎については、記憶があった。 しかし定かではない。 そこで、改めて調べていく。 私が記憶していたのは、「義和団事件」に関係したの物語りだ。 余談だが、『北京の五十五日』と言う映画があった。 事実が極端にゆがめられ、日本では、何箇所もカットされて公開された。 確か伊丹十三が、芝五郎大佐を演じていた。 しかし、会津の出身者であることを知らなかった。 そこで、何冊かの本を取り寄せて、一通り読んでみた。 その中で圧巻だったのは、石光真人著『ある明治人の記録-会津人芝五郎の遺書』である。 この件は、別の機会に書きたい。

 私が追いかけるのは人間関係あるいは人脈である。 「義和団事件」、日本では「北清事変」ともいう。 この事変を背景に、追いかけていた様々な人々が一堂に会する。 そんな感じがするのだ。 先の『ある明治人の記録』を書いた石光真人の父親・石光真清(まきよ)は、熊本藩士の家系であり、明治・大正時代、諜報活動をしたことで有名である。 義和団事件当時、芝五郎大佐は、在清武官であり、その地位からして、石光真清(少佐)とは縁が深い。 というよりも、石光機関といわれた諜報機関を統括していたのではないかと推測できるのだ。 余談だが、首相を務めた橋本龍太郎の祖母は、石光真清の末の妹に当たる。

 話が錯綜するが、東洋文庫に『北京籠城』という本がある。 その著者は、芝五郎、大山梓、服部宇之吉である。 大山梓は、大山巌の孫で、大山柏の子息である。 また、服部宇之吉博士は、福島県の二本松藩の出身で父親は、戊辰戦争で戦死し、戦後苦学して東京帝国大学哲学を卒業した中国哲学の泰斗である。 因みに、大山梓は、海軍主計大尉、後年、帝京大学法学部教授を務めている。

 羅列的に書くが、先回書いたように大山柏は、小金井良精とは、人類学あるいは考古学を通じた親交がある。 母親は、山川捨松(大山巌の後妻)であり、会津藩の城代家老・山川大蔵の妹であり、女子として最初に留学した5人の内の一人なのだ。 因みに、大山柏は、戊辰戦争の時、大山巌(通称・弥助)が柏崎在陣中に生まれたところから、柏崎の「柏」に因んで命名されたそうだ。

 どうも、この時代の歴史を知るためには、人間的繋がりを把握する必要があるようだ。 そして更に、学問的背景が重要であると思われるのである。 石光真人氏が、『ある明治人の記録』を書くに当たって、芝翁と面題した経緯と内容が書かれている。 その中で、関心を引く点がある。 面談の時期は、昭和17年の頃であったようだ。 著者は反駁したようだが、芝翁は、「この戦は負けです」と明言しているのである。 何度かの面談の後のことだろう。 著者に次のようなことを話されたそうだ。 引用してみよう。

 「この戦は残念ながら負けです。」
 「中国人は信用と面子を貴びます。 あなたの御尊父もよく言っておられたように、日本は彼らの信用をいくたびも裏切ったし面子を汚しました。 こんなことで、大東亜共栄圏の建設など口で唱えても、彼らはついてこないでしょう」と。

 戊辰戦争で、祖母、母、姉妹は自刃し、藩というよりも流刑地の如き斗南藩では乞食のような最貧の生活を送り、機会を得て幼年学校に入学するまでの経緯は、涙なくして語れない。 酷寒の地で、満足な衣服もなく、履物さえもなかったという。 武士の子としての自覚の薄れそうになる時、父親から叱咤され、改めて武士であることを意識したそうである。 必ず、会津藩の受けた言われなき汚名をを雪辱しようと。 因みに、斗南藩の極貧の生活から脱却する機会を得たのは、青森県の給仕に採用された時、大参事であった野口豁通(ひろみち)との出会いである。 縁とは不思議なもので、石光真清とは、縁戚にあたるようだ。

 思うに、武士道精神、その背景にある学問的素養、そこにある透徹した倫理観と使命感が、時代を明確に認識する慧眼を培ったのではないだろうか。 また、武士道の精神が背景にあったからこそ、恩讐を越えた人間関係の形成が可能であったのではないだろうか。 江戸中期に生まれる実学、例えば、折衷学の系譜が幕末に至り日本的陽明学や蘭学・洋学として結実する。 ここには、形式美としての武士道があるのではなく、知行合一の精神を背景とした武士道の姿がみえる。 幕末維新の立役者の多くが、方外の学問であった医学を志し、後に、それぞれの分野を開拓した背景には、幕末に生まれ明治に引き継がれた新しい武士道の系譜があったのではないだろうか。

 歴史の中に人の繋がりを求めると、歴史の別な姿が浮かび上がる。 拝金主義に陥った今の世の中を見るにつけ、芝五郎翁のことば、「この戦は負けです」が、ちくりと心を刺す。 歴史が今を見る鑑であるならば、その鑑は、歴史的事実あるいは時系列に従った教科書的歴史ではなく、人の繋がりの基に成り立った歴史であることを、痛感するのだが、さて、今の世に、そのことをどれほどの人が認識しているのやら。

Best regards
梶谷恭巨

 先回(539号)「解剖学者・小金井良精から思いは巡る」で、北京原人の頭骨化石の捜査にあった梛野巌(いつき)について書いた。 この時点では、小金井良精との関係を甥とのみ書いたのだが、詳しいことが判ったので追記する。 (以下、敬称略。)

 梛野巌の父・梛野直(ただし、1842-1912))は、長岡市堀金(旧山古志郡堀金村)に生まれ、長岡藩医・梛野恕秀の養子となり、江戸、長崎遊学後、緒方洪庵の適塾(適々斎塾)に入門している。 戊辰戦争後帰郷し、小林虎三郎や三島億二郎の知遇を得て、国漢学校の教授をするが、廃校、一時期新潟病院に在籍するが、上京して東京医学校で改めて医学を学び、後、長岡会社病院の初代院長に就任している。 恐らく、この時の縁で、小金井良精の妹・保子(長女)と結婚した。 その長男が、梛野巌である。

 余談だが、小金井良精の日記、明治40年代は、良精にとって大変な年であったようだ。 41年1月、鴎外の弟・篤次郎死去、その剖検に立ち会っている。 42年1月、橋本節斎に嫁いでいた末妹の玉汝死去。 7月、長男・良一が東大医学部に入学、梛野巌が第四高等学校に入学。 翌43年7月、ベルリン大学百年祭に出席のため渡欧、この年、医学部門日本代表としてベルギーのブラッセルで開かれた「放射線電気学会万国会議」に出席。 他の部門からは、中岡半太郎も出席。 因みに、この会議は、キューリー婦人が名誉会頭で開催された。 年末に帰国。 翌明治44年4月、在職25周年の祝賀会が行われている。

 これも余談だが、小金井良精夫人・喜美子(鴎外の妹)は、鴎外に似て文筆の才能があったようで、多くの文章を残している。 その内の一つ『ちまき』のなかで、「婆々会」なるものに言及している。 戊辰戦争で辛酸をなめ、故郷長岡では生活も侭ならず、上京したk長岡藩士の婦人たちの集まりである。 最初は、男の会もあったようだが、長続きせず立ち消えたようだ。 婦人たちは、月一回、持ち回りで集まったようである。 そこに牧野婦人と人が登場する。 河井継之助の妹・安子(あるいは、八寸)である。 その部分を引用してみよう。

 「牧野の未亡人は、気性の勝った人のせいか、顔も若々しく、まだ白髪もない。 五人のうち最年長なのだが、いちばん若々しくみえる。 肉づきもしっかりしていて、黒紋付の羽織で、あらたまったあいさつをなさる姿は、男っぽいところがある。 北越の俊才といわれた河井継之助の妹だけのことはある。」 更に続く。 牧野婦人の娘、継之助の姪の話である。 少々長いが、引用する。

 「牧野さんの娘の政枝さんは、この会のだれもがほめる。 維新の戦乱のあと、学問をこころざした。 ひとに笑われながら、そのころはじまった小学校へ、十八歳で入学した。 七つ八つの子供たちにまざって、いろはを習った。 さらに、高等師範学校まで出て、教師になった。 (段落) 父の死んだあと、成長した弟の学費を補助し、大学を卒業させた。 それから弟に家事を託して渡米した。 官費ではなく、苦学だったため、多くの年月をかけて学び、帰朝した。 ほうぼうの学校から、引っぱりだこである。 若くみえるが、もう五十近いはず。 弟はいま地方づとめとなり、政枝が母の世話をしているのである。」 因みに、長岡藩士・牧野(正安)婦人の長男・欽太郎(あるいは、金太郎)は、十日町村における山県狂介(有朋)隊との戦いで戦死している。 以上、星新一著『祖父・小金井良精の記』の中に収録された小金井喜美子の『ちまき』(抄)からの引用。 尚、星新一(親一)の父・星一は、福島県の現いわき市の出身、星製薬、星薬科大学の創設者で、小金井良精の次女・せいと結婚している。 星新一が生まれたのが、曙町であることを考えると、一時期同居していたのであろう。 因みに、曙町の屋敷は、500坪(借地権を所有)あったそうだが、経済的に逼迫した時、50坪の借地権を売却したそうである。

 これは、小金井良精宅で開かれた「婆々会」でのエピソードだが、小金井良精を介して参加していた喜美子の兄が、戊辰戦争の序幕である浜田(石見)口の戦いで、逸早く、大村益次郎の率いる長州軍に参軍した津和野藩の森林太郎(鴎外)の妹である事に、何かしら因縁めいたものを感じるのである。 後の長岡中学の校長の話にも通じるのだが、昨日の好敵手は、今日の親友とでもいうのだろうか、幕末・明治の歴史を散見すると、随所に似たような状況が見えるのである。

 補足より、余談めいた話が多くなったが、最近の二世社会を見ていると、人脈の把握が、現在を知る上で如何に重要かを改めて思うのである。

Best regards
梶谷恭巨

 



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