柏崎・長岡(旧柏崎県)発、 歴史・文化・人物史
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 吉村昭の歴史小説に『長英逃亡』という作品がある(先回紹介)。 勿論、人間としての高野長英を描く最高の作品だと思う。 しかし、江戸後期・幕末の蘭学・洋学の人脈を知る上で非常に参考になる作品でもある。

 長英は、破獄の後、和算学者で門人の内田弥太郎の手引きで、越後・直江津今町に潜伏している。 訪ねたのは、内田弥太郎の門人・小林百哺(ひゃくほ)。 しかし、蘭学・洋学の関係者への捜査の手が伸び、百哺の伝で、同じ今町の豪商・大肝煎(おおきもいり、庄屋の筆頭)福永七兵衛方に匿われる。 福永家も興味深い家なのだが、それは置くとして、家業の一つ酒造業の仕込みの時期になり、安全とは言えなくなった。 そこで、長英は故郷・水沢に向かう決意をするのだが、道中の安全を如何にするか。 福永七兵衛は、思案の結果、出雲崎の侠客・観音寺勇次郎(久左衛門)に長英の保護を依頼する、とある。 少々端折り過ぎのようだ。 詳しくは、『長英逃亡』を参照されたい。 そこで、興味を持ったのが観音寺久左衛門だ。

 以前、長岡藩の九里(くのり)氏についてインターネットで調べたことがある。 その過程で、侠客・博徒のデータベースがあるのを発見した。 よく調べられたものだと感心した。 これによると、新潟(越後)で幕末・明治に名の残る博徒数の数が、およそ80。 多さにも驚いたのだが、そのネットワークが全国に及んでいることにも関心を持っていた。 侠客としての観音寺一家は、4代続いたとある。

 余談だが、九里氏は、牧野の御落胤の家系といわれ、その御子孫が柏崎におられる。 河井継之助記念館友の会のメンバーで、代々継承された古文書が残っているそうだ。 地震の後、一度、お伺いしたことがあるのだが、予備知識が無く、改めて拝見させてもらうことになっている。 だが、そのまま。 先年見つけた市川隣平氏の神道無念流口伝書と同様、埋もれた史料である。

 さて、観音寺久左衛門だが、調べてみると、彼を主人公にした小説があった。 中島欣也著『戊辰任侠録』だ。 幸い古本があった。 早速購入。 読んでみると面白い。 『長英逃亡』では端役だが、こちらでは主役。 しかも、中島氏の調べである。 観音寺久左衛門は、通り名。 本名は、松宮雄次郎、観音寺は住した村の名前で、『長英逃亡』では出雲崎とあるが、これは別邸があった為でだろう。 観音寺村は弥彦に近い与板藩領、そこに本宅があったのだそうだ。 松宮氏の祖先は、源頼朝の家臣を開祖とする豪族で、代々久左衛門を名乗り、観音寺村に住したと云う。 主人公である松宮雄次郎直秀は、十代目・久左衛門。 裕福な家であったようだが先代である九代目・久左衛門は、松宮氏中興の祖といわれ、近隣に富豪として知られていたそうだ。 十代目は、そうした財産を背景に生まれた所為か、学芸にも秀で、特に絵を能くしたそうだ。 『長英逃亡』にも、そのことが書かれている。 この久左衛門が、博徒の大親分、しかも子分が数千人いたと言うのだから驚きである。 因みに、九代目・久左衛門のころから、弥彦神社の大祭の時、定例の花会が開かれたそうだが、関東・東北・中部一円の親分衆が参集したという。 兎に角、エピソードが多いのだ。 例えば、大前田栄五郎や国定忠治などが登場する。 ただし、古文書などでは皆「久左衛門」を名乗るので推定十代目であるそうだ。 因みに、私事だが、我家の場合、代々新左衛門と新右衛門を交互に名乗った。

 その十代目・久左衛門が、会津藩の要請により、兵を募り、最後には一隊を率いて北越戊辰戦争を戦っているのだ。 そして、最後は、会津藩の降伏を期に、米沢藩に降伏し、後に許されて観音寺村に帰郷している。 この辺りの事情は、『戊辰任侠録』を。

 前置きが長くなってしまったが、観音寺久左衛門に様々な人間関係の接点を見るのである。 例えば、久左衛門の参謀格に二人の人物がいる。 一人は、水戸浪人の斉藤新之助、もう一人は、元村上藩士の剣客・遠藤改蔵である。 この組み合わせ、何処かに見たような既視感がある。 生田萬に対する驚尾甚助と鈴木城之助だ。 鷲尾は、尾張浪人の神道無念流の剣客であり、鈴木は、元水戸藩士、共に三条の大庄屋・宮島弥五兵衛(三条の一部は柏崎・桑名藩領、宮島あるいは宮嶋氏は柏崎の出身とか)を介して、生田萬を知り、盟約を結んでいる。 横山健堂の『大塩平八郎と生田萬』によれば、鈴木は、藤田東湖の徳川斉昭擁立運動にも参加したとある。 藤田東湖は、斎藤弥九郎とは、岡田十松門下で神道無念流を共に学んでいる。 因みに、『戊辰任侠録』では、遠藤改蔵の流派が明確に書かれていないが、長沼庄兵衛の門人とあり、また、長岡藩の篠原伊左衛門を上げて「彼もまた神道無念流の斎藤弥九郎に学び」とあるから、神道無念流であったことが推測できるのである。

 高野長英も神道無念流とは縁が深い。 「蛮社の獄」の遠因となる「尚歯会」のメンバーには、岡田十松門下の江川太郎左衛門(英龍)、渡辺華山、斎藤弥九郎水が加わっているのだ。  因みに、『広辞苑』によれば、「尚歯会」の「尚歯」は、『礼記』が出典、「歯」は年齢、「尚」は、(たっとぶ意)老人を尊敬することある。 (岡田十松の門人には、他に、先の藤田東湖、武田耕雲斎、水戸浪人の芹沢鴨、新見錦や新撰組の永倉新八などがいる。) しかも、入牢中、またその後の上足柄郡潜伏中の世話をするのは、江川英龍の命を受けた斉藤弥九郎であり、その配下あるいは門人なのである。 お気付きだろうか、神道無念流が、随所に登場してくるのだ。

 当時の学者や医師は方外の人、それに、剣客も主を持たない浪人が多く、勿論博徒は法外の人なのである。 身分制度が曖昧になった江戸後期から幕末、こうした人々が、それぞれの社会の枠組みを結びつける一種の接着剤的存在ではなかったのか。 少々趣は異なるが、ふと堀田善衛の『路上の人』が思い浮かんだ。 昔は、社会の階層や枠組みを人が繋いでいたのだが、現在は、メディアやネットワークというリヴァイアサン(旧約聖書に登場する海の怪物、巨人。 トマス・ホッブスの『リヴァイアサン』がある)が、相互に遠ざかっていく階層や枠組みを細い糸で繋いでいるのだと。

 観音寺久左衛門は、天変地異、人心の荒廃、グローバル化する世界情勢、動乱の世の中に咲いた仇花か。 彼は、それでも戊辰戦争を生き抜き、故郷・観音寺村に隠棲した。 明治3年、大河津分水の工事の時、県への出仕を要請されたが、「会津の殿様が謹慎中、しかも自分は賊軍で戦った罪人である」と固辞し、佐幕・会津藩、あるいは自分の時代であった江戸時代に義理を通しているのである。 

Best regards
梶谷恭巨



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プロフィール
年齢:
76
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1947/05/18
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よろず相談家業
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歴史研究、読書
自己紹介:
柏崎マイコンクラブ顧問
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